商社マン 山之内 仁のホント話

総合商社に勤務するバブル入社組 山之内 仁が、仕事のこと、自分のこと、家庭のことを自由に書き綴るメッセージブログ。

総合商社 ホント話 Part-1 「箱をつくる」

この総合商社業界は、

私が就活した20年以上前から常に就活人気ランキングの上位に名を連ねている。

出身大学にもよるが入社倍率は300~1000倍、そんな難関をくぐり抜けてきた連中は実力もあるが運が強い。早慶でも国立系でもない、「その他大学」出身の私が入社できたのは90%以上運だと思っている。

運で入社するとその後がつらい。社内試験、TOEIC、簿記など、クリアしなければならない数々のハードル。業務では国語力、英語力など高度なコミュニケーション力を求められる。入社時のTOEICは470点。簿記は不合格。散々な会社生活のスタートだった。

 

1992 年当時はまだバブル時代。スマホやパソコンはなかったが合コンは毎晩のようにあった。入社2年目で新車をローンで購入、愛車で出社し、会社が終わると六本 木の路上に車を止めて合コンへ。2次会、3次会までハシゴしたあと、女子と車でツーショット(いつもではないが)。もちろん飲酒運転なので、泥酔して運転 できないときは路上で仮眠をとったり、ホテルで休憩したり。。。検問場所は常に情報交換して把握した。

高給取りと言われるこの業界も、入社2~3年は他業界と給与額は変わりない。

出費がかさみ、カードローンは上限100万円を常に張り付いた状態だったが、若さ故に怖いものなし。未来は明るく、明日は今日より良くなると信じていた時代だった。まさに「明日があるさー」の世界であった。

 

所 属は食料系の営業部だった。入社3年目のペーペーでも海外出張はビジネスクラス、接待の交際費は青天井で3次会までは当たり前(ぜんぶ会社経費)、タク シーチケットは常に2~3枚持っていた。今の時代では考えられないが、当時は各営業部は使い切れない経費予算を消化するため、部長から若手まで派手に経費 を使っていた。

こんな事があった。あるゴルフ接待で、ゴルフが終わってお客を送り出したあと、我々も帰宅しようとしたが忘れ物を取りにクラブハウスへ引き戻ると、グッズショップで部長と副部長が私用のゴルフバッグ等を会社経費で買い漁っているところを目撃してしまった。さすがに引いた。

 

仕事は営業なので懸命に稼いだ。相場商品を扱っていたので大儲けもしたし損もした。大損をすると課の同僚が一人、また一人と異動していった。

私は相場依存型のビジネスモデルだと、2勝1敗でもその1敗が命取りになると悟った。

予 算のハードルは高い。自分の時間は有限。毎日、同じ商品をただ買って売って小さい儲けをチマチマ積み上げても予算を達成するとは限らず、毎日走り続けるの はシンドイ。自分じゃなくても誰でも出来るような仕事は面白くない。もっと楽に継続的に予算をクリアするため、足し算ではなく掛け算の仕事方法に切り替え て大きく儲けたい。

考えた結果、原料商品トレードを脱却し、付加価値商品へシフトした。取引先(海外)や顧客(国内)を巻き込み、従来は日 本でつくられた付加価値商品を海外(川上)で生産し川下まで最短流通ルートを確立し各社がそれぞれの機能を発揮、商社はその一貫事業のマネジメントを行 い、損益を適正に振り分ける。不要な中間業者を排除することで、3者が高マージンを確保でき、消費者へは安価で提供できる、WIN-WINなビジネスモデ ルだった。

私はこれを「箱をつくる」と言っている。箱=仕組み。商社主導で箱をつくり、原料や市場の事情を常に把握「グリップ」し、その時その時に応じて変化しながら流れを止めない。この箱はしっかりメンテネンスすれば、10年でもそれ以上でも継続できる。

その後、私は2年掛けて従来の2倍以上の利益を毎年継続的に出す箱をつくった。その箱は15年以上経ち私の手から離れて長い今でも発展しながら存続している。

入社6年目、当時は未だ我社に若手に仕事を任せる風潮があった。今の時代に比べて担当者の裁量は大きく自由度も高かった。

当時課長に箱をつくる提案したら「好きにやればいい、俺が後押ししてやる」と。

昼間、デスクではほとんど仕事せず、夜の接待が得意な課長だったが、男気があった。

 

山之内 仁